2009年05月20日

織田 信長、武将・戦国大名・政治家

永禄3年(1560年)、兵力的に圧倒的優位にあった今川義元を桶狭間の戦いで破り世に名を轟かせた。永禄10年(1567年)には美濃国の斎藤氏を滅ぼし、その翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たした。


三日月義昭を将軍職につけ擁立するも次第に関係が悪化し、元亀4年(1573年)にはこれを追放した。武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る信長包囲網が結成されるが、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、元亀2年(1571年)には延暦寺の焼き討ちを断行、比叡山全体を焼き払った。天正3年(1575年)には長篠の戦いで武田勝頼に大勝。以後、天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を用いた(織田政権)。


戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたといわれている。アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、彌介(やすけ)と名付け側近にした。

イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したといわれる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でないころから火縄銃を用いていた。

商工業者に楽市・楽座の朱印状を与え、不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させるとともに、検地を徹底して領国支配を確立し、家臣を城下に居住させて常備軍を編成した。ただ、全ての座を無くさせたわけではない(そんな事をすれば当時の流通は麻痺してしまう)。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座が力を持っている都市では座を利用した。


無駄をなくして統治するというのは、
今の議員さんに教えて貰いたい
ですね。


楽市楽座の精神をいま考えるべきなのかもしれません。

黒人を登用したり、地球儀を理解するなど国際感覚も
持ち合わせていたのかもしれません。

検知などももともとは信長の政策で、秀吉や家康が
受け継いでいくわけなので全国統治の基礎は信長が
つくったといえるでしょう。
posted by せんどう at 11:28| Comment(1) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・

穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。
Posted by 聖徳太子の経歴、謎と諸説 at 2009年05月20日 16:04
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